物語を改編する流れの中で創作した架空のプレスマンに自分であこがれを感じるというのは、ある意味幸せである。
最終更新:2024-08-09 00:03:22
276文字
会話率:0%
和歌を詠めない夏姫は、疫病で両親を一度に亡くし、路頭に迷いかける。そこに求婚してきた藤原惟成は見た目はみすぼらしいが優秀な男だった。夏姫の内助の功もあり惟成は出世、花山天皇の『五位の摂政』として多くの改革を進める。が、従兄弟の藤原兼家の策
謀に手もなくはまってしまう。
惟成出家ののち求婚の手紙が殺到するが、歌を詠めない夏姫は返事が書けない。夏姫は思い余って、修行中の惟成に会いに行く。
注;一巻第四話に疫病で人が大量に亡くなる場面があります。題名の横に「☆」をつけておりますので、精神に負担を感じられる方は、どうか回避してくださいませ。
折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2023-10-02 11:57:59
53852文字
会話率:41%
加賀国原村で打ち捨てられていた女童。
孤児の女童の前に、ある日身形の良きをんなが膝を着いて話しかけた。
「我とともに都へ行きませぬか」
その者の名は、後に白拍子として清盛入道に寵愛賜りしをんな【祇王】。
祇王は元服もまだな女童に、芸を仕
込む。字は基本、雅楽・今様・無論舞なども授けていった。
祇王と血の繋がりし大母御刀自、妹御祇女にも可愛がられ育つ中、祇王とともに清盛入道の前へと召される。ともに舞、たまに笛を吹く。
そして女童は祇王とともに清盛入道より寵愛賜ることとなる。
その際に名付けらる――――名を原村にある花山天皇植わえし松に準え【小松原童子】。
くしくも後に、【仏御前】として清盛入道に寵愛さる白拍子の出身であった。
そして、小松原童子と祇王を割く出来事来る。
かの仏御前、祇王の引き立てにより清盛入道の御前にて今様披露す。これ境に仏御前は召し抱えられ祇王は捨てられた。
小松原童子は祇王が見出すほどの、その優れた見目により継続で寵愛された。屈辱を受けしは祇王のみ。祇王はその後、仏御前と小松原童子の慰め役となりて程なく出家す。
その幾年後、仏御前もまた出家す。恩ありし祇王の坐嵯峨往生院にて妹御と大母御とともに。清盛入道の下おりしは小松原童子のみとなりはつる。
小松原童子、以前より清盛入道に囲われたる琵琶引きのめしひ男童【浮舟】とともに舞い踊る。
ある日清盛入道の下にやってきたのは、入内していた中宮徳子であった。
彼の者、この頃夫高倉院病臥す日々。
そこなに起る不穏な話。徳子を後白河法皇の後宮侍らすとのこと。
思うところありようで、最初の清盛入道への反意はこの小松原童子と浮舟を取り上げることであった。
「きっと、沙羅双樹のようなこの二人の舞と琵琶を聞けば、帝もお元気になられるはずです」
強引に囲いて徳子は二人の舞と琵琶を高倉院に聞かせたり、小松内府や後白河法皇に聞かせてあげることとなる。
その後、高倉院崩御と清盛入道逝去により院号宣下を受け徳子は建礼門院と名を改める。
そして来たる都落ち。小松原童子と浮舟はともに建礼門院へと付き従う。
日増しに強まる平氏討伐の声、あゝ無常なり
驕り高ぶりの行き過ぎ故に起りし不満が花開く。
西国にも見放され、仲間の入水・討死も相次ぐ。
維盛、清経、敦盛、師盛、忠房。
平氏はついに定る。この海原を母と。
壇ノ浦である――――。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2022-01-31 21:33:43
3713文字
会話率:11%
大鏡─花山天皇の出家─超現代語訳してみました
最終更新:2014-11-22 16:28:38
1163文字
会話率:23%
闇の都大路。過ぎ去った花山天皇の一行が灯す松明に向かい、安倍晴明は静かに頭を下げた。
※自サイト『京都にての物語』からの転載となります。
最終更新:2013-03-11 22:15:18
1829文字
会話率:35%