人生の最終盤になって大仕事をやり遂げた人物がいます。鈴木貫太郎です。
幕末に武士の子として生まれた鈴木貫太郎は、海軍に奉職しました。日清、日露の戦役に参戦し、連合艦隊司令長官と海軍軍令部長を歴任し、海軍軍人として位人臣を極めて退官しまし
た。その後、侍従長となって昭和天皇の御側に長く仕え、さらに枢密院議長として余生を過ごしていました。このまま平穏に人生の幕を閉じても不思議ではないところです。
しかし、時代は大東亜戦争の終盤でした。日本が滅亡しかねない状況です。運命は、この人物に終戦という大任を背負わせました。
昭和天皇に諭されて鈴木貫太郎はついに総理大臣になります。とはいえ政治経験は皆無です。政治的な人脈もありません。国内では主戦論が大勢を占め、軍部は本土決戦を呼号していました。これに対処すべき鈴木貫太郎はすでに老齢であり、しかお耳が遠く、組閣さえ他人任せでした。
それでも鈴木貫太郎は、困難な政治調整を御聖断という奥の手でまとめあげ、ポツダム宣言を受諾することによって終戦を達成しました。この間、わずかに四ヶ月の早業でした。
折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2021-02-04 04:05:43
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大日本帝国は危殆に瀕していた。
昭和一九年七月九日サイパンが陥落し、一八日に東条内閣は総辞職した。二二日に成立した小磯内閣は、しかし、劣勢を挽回することはできなかった。さらに、陸海軍協力のために特に指名された小磯陸軍大将と米内海軍大将
のもとでも、陸海の緊密は得られなかった。マリアナ沖海戦に続き、レイテ沖海戦でも敗北した海軍は、実動艦隊の壊滅を受けて悲壮な決意を固めた。一方の陸軍は一撃講和論のもとに、乾坤一擲の決戦場を求めていた。
昭和二〇年春、硫黄島が陥落し、日本本土は前哨を失った。沖縄上陸、大和特攻失敗の中、小磯内閣が瓦解し、海軍大将の鈴木貫太郎に組閣の命が下った。大日本帝国天皇の絶大なる信任の下に成立した鈴木内閣だったが、陸海の不一致も、政府・統帥部の混乱も解消されなかった。強力な指導力の発揮がないのだ。鈴木内閣は統帥・作戦に関して消極的とみえた。といって、外交による和平・終戦への希求にも熱意は現れない。起死回生の秘策があるのか。
実は、この時期、東郷外相と外務省は全権を託されて和平・終戦工作に没頭していた。ソ連邦の仲介による連合国との講和である。東郷自身、当初は懐疑的であったが、障害は鈴木首相が除いてくれる。それどころか、陸軍と海軍の協力も得られた。統帥部からの妨害もない。御前会議での裁可もあった。外務省と内閣はソ連仲介の和平策に邁進する。
昭和二〇年夏、満州は豊作だった。今年も割り当て以上の供出ができるだろう。満州各地の開拓民は満足していた。だが、収穫する開拓民のほとんどは老人と女子供だった。それは市街地でも同じで、工場や事務所では女子供たちが働いていた。満州は、農産物や工場製品だけでなく、兵員も本土に輸出・供出していたのだ。関東軍は三〇万以上の将兵と重装備を本土と南方へ移出した。現有の兵力は七〇万人にまで減少していた。
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