平安時代中期、長元元年(1028年)。
平忠常は平維忠を焼き殺す事件を発生する。
この事件を境に、房総半島全国を戦乱に巻き込む大規模な反乱が発生する。
朝廷軍は、平直方を将軍につけ、房総半島に派遣するが、平直方は指揮官を解任され、新たに河内
源氏源頼信を指揮官に任命し、東国へと下向する。
長元3年春
源頼信は、甲斐国を経由して武蔵、上総へと向かい忠常に降伏を促した。
忠常は降伏を受け入れ、従者と2人の子供を連れ、京都へと護送中に熱病で亡くなってしまう。忠常の首は信濃国の道中で斬られ、献上する。その後、忠常の子供である常将と常近は罪を許され、後に鎌倉御家人になる千葉氏と上総氏を生む。
しかも、河内源氏が東国進出のきっかけを作り、東国武者との共存関係を結ぶことになる。これは、鎌倉幕府の設立のきっかけともなる反乱となった。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2025-01-26 14:47:20
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平安時代も後期に差し迫るなか、朝廷は奥六群から多額の税を徴収していたが、蝦夷の暴動を押さえられず、鹿島神宮を拠点にしている亘理権大夫経清を派遣する。最初は官軍として中立を保ち、頼義に報告していた。だが、安倍貞任が娘婿の平永衡を誅殺した事件を
境に、経清は自身も誅殺されるのでないかと、恐怖を覚えそのまま安倍氏に従うことになる。
12年にも及ぶ戦乱を知略と計略により、安倍氏を率いたものの頼義、義家親子が清原氏を味方にしたの戦略的に大きく、ついに厨川柵を落とされ、経清は鈍刀でノコギリひきをされ、晒し首は地面にたてられると言う、死してなお屈辱を与えられて戦乱は幕を閉じた。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2025-01-25 21:27:17
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