山本五十六(やまもといそろく)が海軍兵学校を卒業したとき、日本は日露戦争の最中でした。五十六は戦艦「三笠」乗り組みを命ぜられ、日本海海戦に参戦しますが、不幸にして五十六は重傷を負ってしまいます。しかし、その病床で五十六は日露戦争の勝因を深
く考究することができました。
日露戦争後、日本の外交環境はしばらく良好でした。日英同盟、ロシアとの協商、アメリカとの友好などがあったからです。しかし、時勢の変転は早く、ワシントン条約によって成立した太平洋の平和も長くは保ちませんでした。
山本五十六が連合艦隊司令長官になったとき、日本の戦略環境はきわめて厳しい状況となっていました。なかでもアメリカとの対立が深刻化していました。アメリカが対日石油輸出禁止措置をとるにいたり、日本海軍は対米戦争を本気で考えざるを得なくなり、作戦研究が日々続けられました。五十六も懸命に必勝の策を考えつづけます。しかし、きたるべき対米戦争には非常な困難がともなうと予想され、結局、必勝の策は見つかりません。とはいえ、南方資源地帯を確保するための第一段作戦に限れば勝算がありました。南方作戦支援のため、五十六は自身が錬成してきた空母機動艦隊を使って真珠湾を奇襲攻撃すると決心します。
昭和十六年十二月、大東亜戦争が始まりました。真珠湾奇襲は成功し、英海軍の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈することもできました。しかし、これはまだ序の口です。五十六はアメリカを屈服させるため、日本海軍の戦力が優勢なうちに、なんとしても決戦を求めようと部下を督励し、自身も骨身を削ります。そして、ようやく完整したのがミッドウェイ作戦でした。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2020-10-24 14:42:02
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捨てられたワニガメの悲しいお話
最終更新:2019-12-23 09:41:55
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